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资料-動員の予行演習…関特演と陸軍参謀本部作戦課

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发表于 2017-12-22 20:36:29 | 显示全部楼层 |阅读模式
2011-08-02 06:57:03
日本陸軍はイギリスと同様に、総動員に憧れたが、その必要はなかった。隣接国が海外にあるから、敵が動員をかけてもそれから兵員を召集して間に合うしそもそも徴兵制が必要あるかも疑問である。徴兵制といっても平時は甲種のみが召集される体制であるし、その合格比率も年次で変動している。また全員が訓練を義務付けられたとは言い難い。徴兵制の完成度は成年男子の総数に対する訓練済み予備役兵士の比率で表される。訓練率と呼ばれるもので、第1次大戦前の独仏両国では6割以上に達していた。これに対し、日本は1935年まで2割を越えることがなかった。2割はイギリスなど志願制をとっている国と大差がない。

戦間期前半日本は大国のなかではアメリカと並び最も兵営国家とは遠い存在だった。ただ若手参謀将校は現在の少壮官僚にみられるようにその国のよってたつ基盤を理解することなくただ単純に総動員体制を作らねばならないと考えた。

日本は第2次大戦が欧州で開始されても完全戦時体制とはせず訓練比率の向上を図らなかった。奇妙だがドイツも総動員を実施せず、1943年まで準戦時体制である。他方フランスとソ連は完全な総動員を実施した。日本は近衛師団を除き0から10番台を現役師団とし平時20個師団体制だが(宇垣軍縮で3個縮小)、太平洋戦争開始の時点まで逐次増加させたものの新設師団を除き49個師団にすぎない。しかも火力増強で歩兵3個連隊が基準で定員は以前より3000人減少していた。

新設師団は欧州でいう予備師団で(1936年兵制変更)装備が旧式なためほとんど内地にいて別名留守師団といわれた。番号は100番台である。一部は大陸に送られた。また大陸の戦線外の警備要員として独混旅団が作られた。これを見ても独仏が第1次大戦で15日間で80個師団近くを動員したという総動員の迫力がわかる。その時点で独仏の人口は1941年時点の日本の半分である。

関特演は田中新一陸軍参謀本部作戦部長の主導で進められた。1941年7月2日の御前会議で決められたとされる。動員下令による兵員の召集は充員召集令状によると定められていたが、機密保持のため、臨時召集令状に切り替えられた。官僚は自らの法律違反はすぐ救済措置をみつけるものである。だが臨時とゴム印で修正しただけなので事情はかえってよく分かる。

動員は7月7日(100号動員)から始まり在満州兵力を25万人から85万人に増やすことを目標として行われた。ただし動員は7月16日下令(102号動員)で打ち切られ、以降は南方への動員となった。関特演は、はなはだ奇怪なできごとである。

この動員演習(実際は動員というのは敵に脅威を与えるのが目的なので、演習でなくて実際動員して、攻勢をかけなければよいのだ。)で田中新一は何を考えたのだろうか。当然6月22日の独ソ戦開始を念頭においたのだろうから、同盟国への協力だろうか。ただ日ソ中立条約が発効していたが。

軍事的にみると85万人満州陸軍では100万人極東ロシア軍には対抗が難しい。そしてたとえばあと100万人を増員することは不可能ではなかった。もちろん予算は必要だが。要するに中途半端なのである。もし動員を理由に極東ソ連軍が攻勢に出れば簡単には敗北しないが(予備がソ連にはない)兵力の逐次投入で不測の損失を受けただろう。ロシア軍は当時機甲師団編成になっていなかったから、攻撃に出るのは難しく戦車は防御にまわった15留(150ミリ重砲)の餌食となった公算も強い。ただし守勢にまわったソ連軍にたいし日本から攻勢に出るのは、局地でのソ連の歩兵・戦車協同による地域支配力および陣地構築法からみて同じく難しい。

ヨーロッパの陸戦の規模は大きい。しかし当時の日本で手に余ったか否かは再検討の余地はある。陸軍の作戦畑の最大の仕事は予定戦場に最大の兵員を集めることだ。ロシアの人口は日本の3倍あり、すでに部分動員を実施し日本の兵員の5倍900万人300個師団を動員していた。この大軍にたいし独ソ戦が始まっても50個師団150万人程度で当たらねば勝ち目はない。極東向け師団は30個師団と見積もり、15個師団は西送されると見込んだらしいが、索敵能力欠如とシベリア鉄道軽視にすぎない。

実際は30個師団は減少せず更に増加した。当然この兵力では攻勢に出られず進退極まった。ソ連はそもそも郷土連隊主義をとっていないから、策源地での兵力配置を論じてもあまり意味がない。更にバルバロッサ作戦発動直後でスターリンは総動員を下令しており、各軍管区で予備師団が大量に作られていた。もともとの規模が違うのだ。

もちろん兵を装備させねばならないが、スターリンの国の工業力は、帝政時とは全く違った。1年間ほとんど援助もないなかで、独力で延べ550個師団を装備させるのに成功した。

実際には、ソ連はオムスク以東で37個師団配置し、極東に30個師団は常時即応できたと推定される。また第2次大戦全期間この程度の兵力はシベリアにあった。これは総動員実施の結果、予備師団の集結地ともなったためだ。

そして総動員というのは平時が重要で、ほぼを男子国民全員を日常的に訓練していなければ出来ない性格のものである。日本の地理環境がそういった体制を必要としない。均衡予算(日本陸軍はなぜかルーデンドルフ=レーニン流財政を信奉)を前提とするなら、動員力の不足を正面装備で補う、すなわち機甲師団の設立や航空兵力を重点としなければならない。しかし生産能力と消費量の区別が理解できない経済軽視の田中にはそれもわからない。下僚は同じく政治屋ばかりでアドバイスも得られない。

こうみると関特演は田中新一が戦略目的(外交目的)と作戦をもたず、独ソ戦をみて攻撃してこないことを見越して(事実正しかったが)楽しんだ作戦の実地演習ということになる。田中新一は極東裁判で作戦部長は上にいわれて計画を作るだけだと言い訳し、罪を武藤軍務局長にかぶせた卑劣漢でもある。また旧陸軍は政治にたいする作戦の優越を唱えたが、すると作戦が政治的効果(=外交的効果 たとえば中立国が敵対する)をよび、作戦をいくらたてても必敗となったらどうするのか。むしろこれを恐れて中途半端な児戯に類する計画をたてたのではないか。

要するに動員というのはこのような遊びの演習以外は演習としてなりたたない。当時陸軍参謀本部には作戦畑閥というのがあり、田中‐服部‐辻のラインで陸軍全体が引っ張られて行く。問題はこのラインが真剣に作戦に取り組んだのかという点である。辻が仕組んだマレー作戦を除き、陸軍はしっかりした作戦がなかったようにも見える。また独ソ戦でシベリア方面の兵がヨーロッパ正面に抜かれ攻勢のチャンスがあるとみたのだ、という説明もある。しかし季節、攻勢準備終了8月というのは最悪ではないか。それとも冬季を乗り切る作戦があったのか。

田中はその後1942年12月佐藤賢了陸軍省軍務局長とつかみ合いの喧嘩をやり翌日総理官邸で『バカヤロー』ほか悪口雑言を吐き、南方軍(ビルマ)に転任させられた。このあたりはプロイセンの参謀とはだいぶ趣が違う。こういった粗暴な人物が事実上陸軍の統帥部のトップにいたのだ。

このあと田中-辻がビルマで苦労したので、責任はある程度果たしたという見方もある。とんでもない話である。ビルマ戦線で倒れた兵士をどう考えるのか。二人に開戦責任があるとは言わない。作戦がなっていないのだ。太平洋戦争では絶対国防圏=大東亜共栄圏で持久するのが根本的な戦略であり、ビルマはそこに入っていない。そして海軍との協力があれば、陸路に出る必要があったのだろうか。そのうえ弱い部分というなら桂林打通と雲南打通を同時に進行させ重慶に脅威を与えた方が効果的だったろう。ビルマの地形では攻勢に出たほうが不利なのは陸軍が以前から言っていたことだ。

またこの三人とも戦後まで生きぬき回想録も残したが、三人とも真実の吐露に欠ける。田中は関特演の攻勢作戦(あったかどうか疑問であるが。)を断念したが翌年になれば南方作戦のあとにチャンスがあるかもしれないと思ったと書き残している。そのままに従えば、ソ連も含めた3正面作戦を実施する結果となる。それでもよいかもしれないが、南方作戦のあとというのは、12月8日(7日)の開戦を知っての謂ではないか。

また海軍が英米不可分論をとなえ、南方作戦に出ようとしたとき、陸海軍間で戦争決意論争が起きた。すなわち陸軍は奇襲をやるにせよ戦争決意が前提となることを主張した。これにたいし海軍は和戦両用でのぞみ、決定となればただちに奇襲作戦が可能だと説いた。これは両者の動員方法の差を考えれば、当然の論争だろう。これは陸軍の方が正当の主張をしている。海軍軍令部が陸軍の動員方法を知らなかった方がむしろ恐ろしい。

ただし当時、大国間の戦争で海軍がイニシアチブをとれるとは誰も考えなかった。この論争の背後にいる決定的人物が戦争のイニシアチブをとり20世紀後半の歴史を企まずして形成したのではないか。

この論争と関特演は陸上兵力動員の仮定としての議論が実際に試されたという点で、画期的である。また関特演は実際には対英戦を意識した陽動作戦だとする見解もあるが、とらない。事実一部はマレー作戦に向けられたが、結果論でロシア‐イギリス両面にわたる作戦は旧陸軍の資料から発見できない。

関特演が日米戦争の第一歩という説もあるが、ソ連はともかくアメリカはこの動員を脅威とみなした形跡がない。アメリカが問題にしたのは南部仏印進駐である。要するに関特演は中途半端なのである。従って関係がない。また軍事措置がすべて戦争の原因だといえば、起源論は必要ない。誰がイニシアチブをとって開戦(戦闘の開始)の契機となる作戦を推進したかが問題なのだ。

関特演は8月7日に事実上攻勢作戦は中止となった。だが兵力の拡大は続けられ、南方に転用され、フィリピン作戦およびマレー作戦に代替はあるものの使用された。これはいくつかの事を教える。動員を実施するだけなら攻勢作戦は不用だが、周囲を納得させるのは至難である。通常は作戦がなければおかしい。本当に作戦がなければ恫喝外交となる。また恫喝であれば秘匿は必要ない。この時場合に応じた作戦を即興で実施できるとは思われない。動員自体2ヶ月以内の短期のものでもなかなか即興を許さない。とにかく関特演は謎の多い事件であることは間違いない。

そして謎といえば第2次大戦の黄昏戦争も同じある。このときは、英仏は宣戦布告し、フランスは総動員をかけた。しかし英仏は攻勢作戦をもたず国境内で持久の作戦をとった。これは第1次大戦の戦訓により攻勢よりも防御の方が有利という考えに拘泥したためである。そしてドイツがシュリーフェンプラン類似計画をとると予想し、ドイツのベルギーへの侵攻そして攻勢防御というガムラン(第2次大戦のフランス軍参謀総長)計画に従った。ところがヒトラーに裏をかかれアルデンヌを中央突破された。これは防御のみの作戦が危険であることを示す。

田中新一は即興を含めて大規模作戦すなわち旧軍が実際に実施した12月8日からの攻勢作戦を準備出来るほどの人物ではない。12月8日からの作戦はシュリーフェンプランを越えた大胆さが備わっておりかつ成功している。田中がシュリーフェンに達することは到底ない。

 (別宮 暖朗)

Bibliography

田中作戦部長の証言 田中新一 芙蓉書房 1956
政治家軍人らしく軍事には触れることがなく直前外交のみに終始している。それでも事実が伝聞の形でしか表現されていない。松岡外相が独ソ戦勃発に関しアメリカの見解を質したところ、「アメリカに手をこまねいて傍観しろと強制する国は武力侵略国(独伊)の一味・徒党とみなす」とアメリカから回答があったと記されている。現在までこの表現のアメリカ側記録は発見されていない。松岡・田中のような極端な反米・反ソ主義の人々に外交を壟断させたことを反省すべきなのだろう。日本語のこの表現では田中はアメリカは悪鬼のような国でしかないと思ったようだ。ただ田中は単純な男だけに外務省の作成した日本語テキストのみを間に受けた公算が強い。せめて英語を勉強するかまたは明治以降の日米外交史・国際法を知り外交文言がどのようなものか理解する必要があっただろう。なお下僚は戦後40年経過しても外交用語の侵略が理解できていないことを、自著で暴露している。

陸軍参謀本部作戦課

正確には大本営陸軍部作戦課で昭和16年9月18日、南方作戦準備発令時、課内編制。

課長…服部卓四郎
作戦班長…櫛田正夫
(補助)…瀬島竜三
戦力(兵站)班長…辻政信
航空班長…久門有文

この上に部長で田中新一がいた。このとき作戦班長の下に対南方5名、対北方2名、対支那2名の参謀が付せられていた。この時には南方作戦に重点が移っていたことがわかる。

このとき作戦班に高山信武(39期少佐)がいた。戦後高山は自衛隊北部方面総監をつとめた。北進論で、最も熱心に対ソ攻撃を主張したといわれる。歴史は北進せず南進したが、自著『陸軍参謀本部』で主張を変えず北進論を展開している。また高山は、田中新一を苦しいながらも弁護する立場にたっている。海軍でもあまり変わらないが、同一組織に属していると実情以上にかばいあう傾向が存在する。最近の官僚の組織温存と本質は同じだろうが、歴史を前にする重みは違うのではないか。田中の業績は東條に強く発言でき、それで作戦課の地位を維持-向上させたらしいが、一体歴史の前でそれがどうだというのか。

高山の北進論の要点は、
三国同盟の実をあげ、対独協力となる。
結果論だがヒトラーは日本が攻勢に出れば、キエフ攻略でなくモスクワに直進したのではないか。そうすればソ連野戦軍を捕捉できた。
日ソ中立条約は有名無実で考慮に値しない。とくに独ソ中立条約をドイツが破った以上もはや遵守に値しない。
対ソ攻撃を開始してもアメリカの参戦を招くことはない。
また高山は名指ししていないが服部課長が南進論だと指摘している。すると辻も南進論で、作戦部内の統一は到底図れていないことになる。事実は誰も定見はなく、ドイツの勝利に舞い上がっていただけではないか。その証左に高山の議論に武装中立の選択肢はなくどちらかと開戦するという意識しかない。それが時代だといっても、参謀本部が世論に迎合して開戦の可否を決めるのでは存在意義がないではないか。

高山の論点を批判すれば、

7月半ばの時点で攻勢に出られるのか。高山は北進論を主張するが、どう進むかは書いていない。
シベリア作戦となると、シベリア鉄道をどこで切断するかの問題となる。シベリア出兵時の警察活動とは異なり野戦軍を捕捉する必要がある。沿海州(ウズーリ)を占領しても意味がない。ソ連の野戦軍の中心ははるか西にいる。
シベリア鉄道の切断点までの補給路確保が最重要となる。シベリアにガソリンスタンドはおろか道もない。切断点まで鉄道を敷くしか方法がないが、その準備が全くない。また最良の地点は満州里からチタ(東支鉄道とシベリア鉄道の合流地)だがノモンハン一帯で奇襲がなりたたない。
すると黒河-ブラゴウェシチェンスク付近だが満鉄から最も遠い。北方作戦を考えるなら始めから大興安嶺を越え満鉄を延引しておけばよいのだ。
冬の到来で戦線は停滞すると予想されるが、満州里以西で功勢に出られるのだろうか。極東ソ連軍は関特演以降でも関東軍より優勢である。補給線はシベリア鉄道で保持されている。ロシアの鉄道をバックにした粘り強い抵抗はナチスドイツの進行すら食い止めた。さらにシベリア鉄道を切断したとしてロシア軍は側面攻撃、たぶん満州里ーハイラルの線から侵攻してくるがその対策はあるのか。
高山は正面装備とくに機甲師団を重要視するが冬季のシベリアでタンクが有用だろうか。草原または道路上では強いが、フィンランド冬戦争では脆さを露呈した。攻勢にでる日本にとりタンクは必要な兵器だろうか。タンクは森やジャングルは通れない。永久凍土のうえはどうなのか。これを補うには航空用兵・スキー兵と築城だが、高山ないし陸軍本部の能力で果たして運用できただろうか。モスクワ前面でドイツ機甲師団を止めたのはソ連のスキー兵による浸透作戦ではなかったか。
最悪のケースで、日本の地上兵力をシベリアで損耗しかも戦闘でなく凍傷で失うことにならないか。そうなると大陸戦線も危なくなる。
ヒトラーのバルバロッサ作戦の無定見はそれだけでも研究に値する。あれだけ西部戦線では奇襲性確保のため作戦を練り上げたのに、モスクワかキエフかを開始後論争するというのは、ドイツ参謀本部の汚点かもしれない。索敵は無視し攻勢最大線だけを決めたのだろう。しかし高山はこのヒトラーの愚と同じ事をやろうとしてないか。(ただ北進すればよい。)二正面作戦は不利だが不可能ではない。日本がソ連にドイツと共同戦線を作ったとして勝利の保証はそれだけではない。
ヒトラーはキエフ占領を日本の参戦と関係なく経済的理由で決めたと主張している。このヒトラーの自己説明(テーブルトーク)も実は怪しい。第1次大戦のドイツ軍最大版図を狙っただけではないか。占領地が酷似している。戦後ドイツの将軍は成功した点は皆自分が決めたといっているが、テーブルトークによればヒトラーの役割は軍事面でとくに大きく、成功も失敗もヒトラーによるのではないか。バルバロッサ作戦蹉跌の一因は敵を鎧袖一てきと侮り、まともな作戦を立てなかったことに起因する。これはヒトラーが第1次大戦で終始西部戦線にいて東部戦線を体験せず、ロシア軍またはロシア人を侮蔑したためではないか。
高山はモスクワに直進すればソ連の野戦軍を殲滅できたとするが不可能だろう。第1次大戦のドイツ軍とロシア軍は機動戦を展開したが、ファルケンハインはゴルリッツ突破戦で包囲殲滅は不可能という方針で臨んだ。鉄道が東西に伸びるロシアの地形では逃げる軍を捕捉できない。ヒトラーもウラル以西しか侵攻計画をもたなかった。この第1次大戦の最も重要な戦訓を理解してないない人間が対ソ連戦の作戦参謀だったことをどう考えればよいのか。
批判は作戦課なので、戦術面に止めるが、高山は仙台幼年学校開闢以来の秀才と言われ、前線を殆ど経験していない。そして高山は1941年6月山下奉文のミッションに加わり、ヒトラーとも面会し、山下はそのとき直接北進の依頼を受けたという。

それでも疑問は作戦課にありながらこのあまりの政治性である。作戦が政治を決定したのがドイツ流だとして、これでは作戦を決定しないで、参謀本部が政治をやっているかのようだ。
しかもこの高山の若さ(このとき33歳)である。作戦参謀33歳が作戦を練らずに政治に没頭し、また政治運動や塹壕経験満点のヒトラーと面会し日本の命運に関わる決定に関与したことをどう考えるか。

これは現在の補佐政治(実務を本省では担当の課長補佐にまかせるため、実際の政治がすべて補佐で決定されること。)にも通ずるが、試験で優秀な小数を据えて本当にまともな作戦(…)ができるだろうか。

また対等の立場でなく独裁者と交渉をもつことは非常に危険である。高山もヒトラーを『好男子であり、眼は優しくしかも鋭く、文字通り威あって猛からず、魅力満点の英雄であった。』と1978年出版の本で真面目に書いている。高山を弁護すればこれはヒトラーについて同時代における面会者の普通の記述である。あのロイドジョージですらヒトラーに圧倒されている。ただし第2次大戦以降は意見を変えているものが大部分だ。

外交官は訓練を受けるのであまりない(松岡洋右は例外だろう。)が普通の政治家は初対面で独裁者のもつ雰囲気と舞台装置で、忘我の境地に陥ってしまう。最近でも中国と北朝鮮で同様のことがあった。だが外交官以外の官僚に任せる、とくに未経験者に任せればもっとひどくなる。

また自著で過去の戦訓および現在の軍編制に全く触れていない。全編政治なのである。そして時には歴史学者になる。例えば満州事変がシナ事変を用意し、大東亜戦争につながったというのである。これはマルクス主義歴史学者によくみられる主張だが、歴史の説明にはなっていない。単純に言えば、高山の説に従って北進すれば歴史にあった大東亜戦争はなかったのだ。この3つの戦争をつなげるのは仏教的因果論であればともかく、途中でやめることや別の国と戦争を行いコースが変わることはありえたのだ。歴史に必然はない。

満州事変やシナ事変は局地戦にすぎず世界戦争いや極東戦争(日中)でもない。ナチスドイツのヨーロッパ戦争が太平洋戦争の開始を促した。シナ事変はヒトラーのヨーロッパ戦争を促していない。そして太平洋戦争がヨーロッパ戦争を世界戦争にしたのだ。これから見ても陸軍関係者には残念かもしれないが、太平洋戦争とシナ事変は切れているのではないか。

満州事変を開始した人間(石原莞爾)がたとえ世界戦争の必要を説いたとしても、太平洋戦争の開戦責任はない。シナ大陸に軍事介入した大国は第1次大戦以降現在まで日本しかない。他国は沿岸都市への興味すなわち貿易には興味があっても、領土としてのシナ大陸には興味がないのだ。だがロシアへの侵攻は違う。シベリアへの侵攻はヨーロッパ戦争への介入を意味する。

また注意せねばならぬのは、田中の北進論の前、シナ単独解決論または英米分離によるイギリス攻撃論が陸軍の主流だったことである。1939年11月蒋介石が中支を中心に冬季攻勢をかけ、これを防御姿勢で敗北させると、むしろ内地からの増援がなければ撤退すべきだと現地軍は主張した。

ところが昭和15(1940)年予算編成で在支兵力75万人からの削減計画が論じられ増加は財政的に不可能となった。陸軍もヨーロッパ戦争での装備をみて正面装備充実を図らざるを得なくなった。従って本気に撤兵のための桐工作を開始した。また当時陸軍は均衡財政主義を主張しており、国家総動員の中味は実物経済的な理解だった。軍人が財政や外交はできないことはここでもわかる。

ここの時点で大陸への大軍派遣が経済的に引き合わないことが誰の目にも明らかとなる。軍人の反応はこのように局地戦で戦略的に失敗すると作戦-統帥は無視して政治的解決(外交でなく脅迫・謀略)を計りさらに別の戦線を作り打開しようとする。

それでも高山の評価すべき点はある。日本の二頭政治(陸軍と海軍)の限界を相当手前で認識し、対アメリカ戦の危険を感じていること、また英米一体論に批判的だったことである。分からないこと(アメリカの政治的決定が事前にわかればそれだけでも殊勲一等である。)を決めつけ、不利を招く作戦を画くというのは、いくら仮想敵として40年頑張ったとしても許されない。しかしシュリーフェンもやったのは事実だ。

また高山は自著から出身地は不明だが仙台幼年学校卒業だから東北なのだろう。長州閥にたいする憎しみからか昭和陸軍のなかで東北出身者は特別の地位を占めているようにみえる。にもかかわらず、東條にたいする積極的な批判を行っている。ドイツとの連合作戦論も評価できる。ただ太平洋戦争勃発以降の評論は要職にあったにもかかわらずとるに足りない。

とにかく戦訓を始めとして研究努力が欠けている。師団の員数を確認してそれで終わりとしていたのではないか。ドイツ・ロシア・フランスこの三国の総動員後の兵力は日本人の想像を絶している。太平洋戦争緒戦、最大の陸戦マレーでも3個師団半しか参画していない。ソ連軍は300個師団あったのだ。

高山はポツダム宣言受諾時は継戦派に属しクーデターにも賛意を示したようだが、米軍進駐とともに第一復員省(陸軍省の後身)に勤務した。ここでもドイツの第1次大戦終了時と同様に成績優秀者は忠臣でなく、官僚のポストに固執するが現れている。その後自衛隊創設時参加、陸将まで昇進する。しかもこの転進または官僚の地位保全は高山だけのものではない。服部課長に至ってはGHQの外郭団体に転進した。そして参謀本部勤務の多数は自衛隊に参加し将官まで昇進している。本部付き参謀が栄えて将軍と兵士が消えて行く第1次大戦後のドイツと同じ構造である。

昭和陸軍の本部付き参謀は本当に国家と国民を愛していたのだろうか、それとも肩書きと人事権を中心とする権力にあこがれたのだろうか。                                                                   
(別宮 暖朗)

Bibliography

高山信武 参謀本部作戦課 芙蓉書房 1978
瀬島竜三 大東亜戦争の実相  PHP研究所 1998
      ;幾山河        産経新聞社ニュースサービス 1995
(当時著者は作戦課所属だがこれら本では自分がどう考えなにを発言し行動したかがほとんど触れられていない。元軍人の回想録はじつは大半が自慢話である。ところがこの本にはそれもない。なにか隠しているか恐れているのだろう。とくに重要な関特演から9月6日までが欠落している。この点は高山も似ている。話題を天皇との拝謁または答申の修文に変えている。このとき杉山参謀総長が拝謁のとき綸言汗のごとく、汗をかいたという。これは用語法の間違えで、綸言は君主の発言をさしかつ汗のごとく一旦出たら取り消しがきかないことの比喩だ。それともなにか意図があるのか。)
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